蘇莫者
2009年 12月 20日
第147回 大阪センチュリー交響楽団の定期演奏会に行ってきました。>17日
今回は、西村朗作曲の「蘇莫者(そまくしゃ)」が楽しみでした。
プログラムをみたときから、ずっと待ってましたので嬉しかった。
ちなみに、蘇莫者とはこんな意味があるそうです。
蘇莫者 1
蘇莫者 2
舞楽は、「天王寺楽所 雅亮会」の皆さん。
一応、少し解説を。
平安時代における日本雅楽の成立以来、その伝承は主に宮廷(京都)、南都(奈良)、四天王寺(大阪)の三箇所に設けられた雅楽団体によって行われてきました。これらの演奏グループのことをそれぞれ楽所(がくそ)といいます。四天王寺は飛鳥時代から奈良時代にかけて、当時の中国や朝鮮の様々な文化の集積地でした。従って雅楽はまず、奈良時代にこの寺にもたらされ、教習伝承がなされ、やがてそこから次
第に当時の都、奈良へと伝播していったのです。
天王寺楽所の楽人達は、このような歴史的伝統を大きな誇りとし、技術の錬磨に励み、吉田兼好が『徒然草』で「都に恥ぢず」(第220段)と評するほどの技量を保っていました。また天王寺楽所は、応仁の乱に際しては京都での雅楽廃絶の危機の克服に大きな役割を果たし、江戸時代以降、大内楽所(京都)、南都楽所(奈良)とともに三方楽所の一つとして、独自の演奏スタイルをよく保持してきました。
しかし明治天皇の東京遷都(1868)により、宮廷や南都の楽人とともに、四天王寺の楽人達も召されて東京に移ることとなり、長年の伝統を誇ってきた天王寺楽所は解体の危機に陥ったのです。その伝統の消滅を惜しんだ大阪の仏教僧、小野樟蔭は残留の天王寺楽人や民間の篤志家を集めて、天王寺舞楽の再興を図りました。これが雅亮会の始まりです。雅亮会は1884年(明治17年)に設立され、それから百十余年にわたり天王寺楽所の伝統を受け継いで、今日に至っています。
「舞楽」と書いてありましたので、どちらかというと、「舞」に近いのではなかろうか?と思っていました。「舞」というと思い出すのは、仕舞、地唄舞、京舞ぐらい。地唄舞は、体の使い方がまだ踊りのほうに似てるそうですが、京舞、仕舞になると全然違います。私の(勝手な)イメージは、仕舞に限りなく近いものでした。
実際に拝見してみると、グッとした力強い感じはそんなになかったです。(前日に、南座で「石橋」を観たせいかもしれない。)手もよく動かしておられましたし。。。。。。
でも、あれだけ手を動かしてしまうと、内に力を込めるというのは、やはり無理なのかなー、と後で思いました。仕舞は、グーっと、内に力を込めるような感じなのですね。私が勝手にそういうのをイメージしていたわけですが。。。。。動き自体はそんなに手が多いというわけではなかったですね。
また足の運びが独特で・・・・。 本当に独特なんですよ。すり足なんですけど、仕舞とはまた違うんです。
あんなの観たことない。 へーーーっ、とひたすら感心していました。 シンフォニーホールの舞台に、また舞台が設置されてたのですが、緑の布(だと思う)が下に敷かれてました。あれで、すり足はちょっとムツカシイなー、と思ってみていましたが、いつもあんな感じなんでしょうか?床って、滑らないのも困るけど、滑りすぎても困るんですよね。踊りにくいもの。
ふーん、こんな日本もあったんやー、というのが、今回の私の感想でした。
「天王寺楽所 雅亮会」 のHPをみてて思い出したのですが、藤原頼道は舞の名手であったそうです。きっと、こんな舞を舞ってたのでしょうね。
機会があれば、また雅亮会の舞楽を拝見したいです。今度は音楽も楽しみたいな。
プログラムの後半は、フランクの交響曲でした。
ひさしぶりに聞けて嬉しかったです。ちょっと胸のすく思いをしました。(笑)
結構、好きなんですよ、この曲。
いくらでも知らないこといっぱい・・・な日本ですね。
私がリンクを貼らせていただいてる、Prost Familie は大阪センチュリー交響楽団のコントラバス首席奏者、奥田氏のブログです。今回の演奏会(別に今回だけではないのですが)のお写真をアップしてくださってますので、ぜひ、ご覧になってくださいね。
先週半ばから、一段とぐっと冷え込んできましたね。
めちゃ、寒がりなんですけど、ここまで冷え込むとなんか許せてしまう私です。(意味不明)
風邪ひかないように、お体お大事に。
遅くなりましたが顔見世のことは、明日から書いていきます。
また読んでくださいね。
今日も、ありがとう。
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今回は、西村朗作曲の「蘇莫者(そまくしゃ)」が楽しみでした。
プログラムをみたときから、ずっと待ってましたので嬉しかった。
ちなみに、蘇莫者とはこんな意味があるそうです。
蘇莫者 1
蘇莫者 2
舞楽は、「天王寺楽所 雅亮会」の皆さん。
一応、少し解説を。
平安時代における日本雅楽の成立以来、その伝承は主に宮廷(京都)、南都(奈良)、四天王寺(大阪)の三箇所に設けられた雅楽団体によって行われてきました。これらの演奏グループのことをそれぞれ楽所(がくそ)といいます。四天王寺は飛鳥時代から奈良時代にかけて、当時の中国や朝鮮の様々な文化の集積地でした。従って雅楽はまず、奈良時代にこの寺にもたらされ、教習伝承がなされ、やがてそこから次
第に当時の都、奈良へと伝播していったのです。
天王寺楽所の楽人達は、このような歴史的伝統を大きな誇りとし、技術の錬磨に励み、吉田兼好が『徒然草』で「都に恥ぢず」(第220段)と評するほどの技量を保っていました。また天王寺楽所は、応仁の乱に際しては京都での雅楽廃絶の危機の克服に大きな役割を果たし、江戸時代以降、大内楽所(京都)、南都楽所(奈良)とともに三方楽所の一つとして、独自の演奏スタイルをよく保持してきました。
しかし明治天皇の東京遷都(1868)により、宮廷や南都の楽人とともに、四天王寺の楽人達も召されて東京に移ることとなり、長年の伝統を誇ってきた天王寺楽所は解体の危機に陥ったのです。その伝統の消滅を惜しんだ大阪の仏教僧、小野樟蔭は残留の天王寺楽人や民間の篤志家を集めて、天王寺舞楽の再興を図りました。これが雅亮会の始まりです。雅亮会は1884年(明治17年)に設立され、それから百十余年にわたり天王寺楽所の伝統を受け継いで、今日に至っています。
「舞楽」と書いてありましたので、どちらかというと、「舞」に近いのではなかろうか?と思っていました。「舞」というと思い出すのは、仕舞、地唄舞、京舞ぐらい。地唄舞は、体の使い方がまだ踊りのほうに似てるそうですが、京舞、仕舞になると全然違います。私の(勝手な)イメージは、仕舞に限りなく近いものでした。
実際に拝見してみると、グッとした力強い感じはそんなになかったです。(前日に、南座で「石橋」を観たせいかもしれない。)手もよく動かしておられましたし。。。。。。
でも、あれだけ手を動かしてしまうと、内に力を込めるというのは、やはり無理なのかなー、と後で思いました。仕舞は、グーっと、内に力を込めるような感じなのですね。私が勝手にそういうのをイメージしていたわけですが。。。。。動き自体はそんなに手が多いというわけではなかったですね。
また足の運びが独特で・・・・。 本当に独特なんですよ。すり足なんですけど、仕舞とはまた違うんです。
あんなの観たことない。 へーーーっ、とひたすら感心していました。 シンフォニーホールの舞台に、また舞台が設置されてたのですが、緑の布(だと思う)が下に敷かれてました。あれで、すり足はちょっとムツカシイなー、と思ってみていましたが、いつもあんな感じなんでしょうか?床って、滑らないのも困るけど、滑りすぎても困るんですよね。踊りにくいもの。
ふーん、こんな日本もあったんやー、というのが、今回の私の感想でした。
「天王寺楽所 雅亮会」 のHPをみてて思い出したのですが、藤原頼道は舞の名手であったそうです。きっと、こんな舞を舞ってたのでしょうね。
機会があれば、また雅亮会の舞楽を拝見したいです。今度は音楽も楽しみたいな。
プログラムの後半は、フランクの交響曲でした。
ひさしぶりに聞けて嬉しかったです。ちょっと胸のすく思いをしました。(笑)
結構、好きなんですよ、この曲。
いくらでも知らないこといっぱい・・・な日本ですね。
私がリンクを貼らせていただいてる、Prost Familie は大阪センチュリー交響楽団のコントラバス首席奏者、奥田氏のブログです。今回の演奏会(別に今回だけではないのですが)のお写真をアップしてくださってますので、ぜひ、ご覧になってくださいね。
先週半ばから、一段とぐっと冷え込んできましたね。
めちゃ、寒がりなんですけど、ここまで冷え込むとなんか許せてしまう私です。(意味不明)
風邪ひかないように、お体お大事に。
遅くなりましたが顔見世のことは、明日から書いていきます。
また読んでくださいね。
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by akikoj-happy
| 2009-12-20 13:59
| 音楽(クラシック)
|
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